明智光秀と熊川宿の関係に関心が高まっています!
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(写真:熊川城郭と、沼田氏の供養塔・家康腰掛けの松がある得法寺)
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1570年(永禄13年)4月、木下藤吉郎(後の秀吉)や徳川家康を従えた織田信長は、越前の朝倉義景を討つため京都から敦賀へ向かう際、熊川で一泊しました。得法寺に泊まった家康は翌朝出発に際し、境内の松に腰を掛けたと言い伝えられています。その2日前、明智光秀は先遣隊として熊川に入り、細川藤孝らに平穏を知らせる書状を送っています。
信長は敦賀において朝倉氏を攻めますが、浅井長政の裏切りにあい、熊川から朽木を抜けて命からがら京都へ逃げ帰りました。いわゆる「金ヶ崎の退き口」で、その時、藤吉郎と光秀らが殿(しんがり)となって迫る朝倉・浅井軍を防いだと言われています。
大河ドラマでいよいよそのシーンが近づいてきました。若狭と近江の国境の要衝
熊川。大河ドラマでどこまで描かれるかわかりませんが、益々関心が高まるところです。
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