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鯖街道の由来

若狭ではいつの頃からか小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われており、与謝蕪村(1716〜83)が「夏山や 通ひなれたる 若狭人」(安永5年 1776年の句)と詠んでもいるように若狭と京都はきわめて深い関係にありました。

若狭をほぼ東西に走る「丹後街道」は、東は越前敦賀、西は丹後の舞鶴あるいは宮津までの幹線道路でした。

「若狭街道」は、大陸文化の玄関としての小浜から若狭町(旧上中町)の日笠を通り、熊川を経て、滋賀県高島市朽木(旧朽木村)を越え、大原八瀬より京都への道を言います。しかし、より正確に言うならば、小浜から日笠までは「丹後街道」であって、日笠から京への道を「若狭街道」と言うべきかも知れません。

「鯖街道」もいつの頃からかこの呼び方をされていますが、熊川の古い文書には由来となるはずの若狭湾の鯖とわかる記載は見当たりません。

しかし18世紀後半になって若狭湾で多種類の海産物に混じり大量の鯖が水揚げされるようになった事や小浜の『森田宗太郎家文書』によれば宝暦(1751〜63)以後、若狭の海で鯖が大量に漁獲され、これを京都の人々が大衆魚として広く庶民が賞味し、また祭礼にも欠く事が出来なかったためだ、とも考えられます。

これらが運ばれた道は幾通りもありましたが、鯖の運ばれた道の総称が「鯖街道」であると言っても良いでしょう。

中世以降は熊川・朽木経由の「若狭街道」こそが輸送量の多い「鯖街道」の名に最も相応しい道であったことは確かです。

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熊川宿とは

熊川は、もともと戸数40ほどの小さな寒村であったという事です。室町時代に、戦略上の要地として足利将軍直属の武士、沼田氏が山城を構えたところであり、今もその遺構を確認する事が出来ます。

さらに、豊臣秀吉の相婿(実際は再従姉妹の夫)でもあり秀吉に重用された浅野長吉(長政)が、 小浜城主になった時に交通・軍事の要衝として、熊川に対し天象17年(1589)に諸役免除の布告を発し、この地の特別の発展を図ったのです。

以来、若狭代々の領主は、この政策を受け継ぎ熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄していきました。 江戸時代初期から中期にかけて、熊川宿の戸数は200戸を越えていたようですが、現在では100戸ほどになっています。

また熊川の東方の集落大杉は、熊川が人馬継ぎたてを主とし資金の賃借、人足・馬方の出入りなど諸般の仕事をした問屋を基盤にしていたのとは異なり、農家からなる集落です。

熊川よりも前に開けたという言い伝えがあり、元弘年間(1331〜33)鎌倉時代末には、関所が設けられて往来を監視したと『熊川村誌』に記されています。

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航空写真
熊川宿整備前
熊川宿整備後

上ノ町
中ノ町
下ノ町

 

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